2011年5月24日火曜日

『逝きし世の面影』紹介。(後編)

 続き。


 悠長に、必要最低限の仕事しかしなかったと言われた江戸の民達。

 しかし、その中にも、現在我々が「日本人気質」と感じる性癖は備わっていたようで、彼らの悠長さを責めたその同じ人達から、彼らがなす仕事の手際の良さと、そしてその趣味の良さとが賞賛されてもいるからである。


「二十人ばかりの半裸の大工が庭で忙しく働いていた。板を引き割り、それをまるで手品のように椅子やテーブなどヨーロッパの備品に変えてゆく。彼らの前にはお手本の品が置かれていた。彼らは疑いもなく世界で最も熟練した指物師であり大工だ」

『ロッシュ一行は百人近い大部隊だったので、予定の宿舎を急遽手直しせねばならなかったが、大工が仕事にかかると、「一時間ぐらいのうちに、母屋の内部がすっかり変わってしまったのである。(中略)この仕事にあたった日本人の職人の腕の良さと敏捷さは注目に値し、あまり良くない道具を使っていたにもかかわらず、西欧の職人など足元にも及ばないような正確さと趣味の良さをもって、あっという間に仕上げてしまった。」。』


 まあ、いつもは「ゆっくりしていってね!」だけど、スイッチ入ったらとことん、ってわけですな。まあ、「明日から本気出す」よりゃマシだけど。

 その労働は唄で飾られ、笑顔に満ちていたそうな。そして、その労働から生み出された産物への賞賛も、外国人たちの記録の端々に顔を出す事物だったそうで。


「どうして、日本人は安物をこんなに美しく作れるのかわかりません。多くの品物は美しいから使われるのではなく、安いから使われるのです。たとえば、非常に粗い生地でできた紺と白の手拭いは、一ヤード一セントから五セントで買えるので、人夫や車夫たちに使用され、けっして美的な物とか飾り物とか考えられていません。でも、手拭いはとても美しいデザインが描かれており、人夫が使うことを考えなければ、家庭用の装飾品として何にでも使えると思います」

「日本の職人は本能的に美意識を強く持っているので、金銭的に儲かろうが関係なく、彼らの手から作りだされるものはみな美しいのです」

「ここ日本では、貧しい人の食卓でさえも最高級の優美さと繊細さがある」


 生み出された製品を扱う店も細分化されており、下駄屋や紙笠屋、扇屋どころか、羽織の紐を売る店、筆だけ売る店、墨だけ売る店、はては髷を結うためのかたい詰めものを売る店、なんてものさえあった。禁令を破って日本を旅した当時の女流探検家、イザベラ・バードの手記によれば、新潟のある町で立ち寄ったかんざし屋で数えてみたところ、『たいした値段はしない無地のしんちゅうや銀のかんざしから、少なくとも八円から十二円はする、鳥の群れや竹をみごとに彫りこんだ精巧なべっこうのかんざしまで』、実に一一七種類ものかんざしがあったという。

 中でもその文化的洗練を端的に表しているのは、大森貝塚の発見で有名な動物学者エドワード・S・モースの著作『日本人の住まい』で紹介されていたという、欄間に対してのエピソードじゃないだろうか。

 欄間とは言うまでもなく、日本家屋で使われる、天井板と鴨居の間の空間を埋める、格子や障子、透かし彫りの板といった装飾のことである。モースはその優美な幾つかの例を、スケッチと共に紹介しているのだが、その中には大和五条や、肥後八代の旧家の欄間も含まれていた。モースは言う。


「遠隔のさまざまな地方の、比較的小さな町や村に、前述のような素晴らしい芸術的香りの高い彫刻のデザインを考え、これを彫るという能力を持った工芸家がいるらしいことは、顕著な事実であると同時に注目に価する事実である。」


 そう、このエピソードは、「首都から遠く離れた鄙の地に」「風流な欄間を飾る文化的素養を持つ主人が存在し」「その要望に応えるだけの文化的素養と技術を持つ職人がいた」ことを示しているのだ! しかもそれは、ごく一部の地方の、富裕層だけのものだったのではない。田舎の、あばら屋のような旅籠にも、風流な欄間があったのである。なんという、文化的豊穣であろうか。

 この文化的豊穣を支えたものは幾つもあるだろうけど、当時の生活費の安さも大きかったと思う。


「日本で貧者というと、ずい分貧しい方なのだが、どの文明人を見回しても、これほどわずかな収入で、かなりの生活的安楽を手にする国民はいない」


 「米」という極めて収穫量の多い穀物と、それに特化、洗練された農業形態、豊富な海産資源から得られた恵みにって安価な生活を送り、西欧に「日本には乞食がいない」という伝説まで流れたその豊かさを享受していたのは、都市の民だけではなかった。農村や漁村に見られる生活のゆたかさと清潔さは、多くの旅人たちの著述のうちに見られる証言だという。


「この土地は貧困で、住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するだけで精一杯で、装飾的なものに目を向ける余裕がない」「それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけ食べ、着物にも困っていない。それに家屋は清潔で、日当たりも良くて気持ちが良い。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」

「私はこれまで、容貌に窮乏をあらわしている人間を一人も見ていない。子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えているし、男女ともすこぶる肉づきがよい。彼らが十分に食べていないと想像することはいささかもできない」

「構外の豊穣さはあらゆる描写を超越している。山の上まで美事な稲田があり、海の際までことごとく耕作されている。恐らく日本は天恵を受けた国、地上のパラダイスであろう。人間が欲しいというものが何でも、この幸せな国に集まっている。」


 『日本事物誌』を著した当時の高名なジャパノロジスト、チェンバレンは、当時の日本を評して「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と語っている。

 もちろん人間が住まう以上、パラダイスなんてものは存在しないし、当時の日本でも貧困はもちろん存在した。先にも挙げた女流探検家、イザベラ・バードの旅行記に、福島と新潟の県境近くのある山村で「悲惨な貧」としか表現できないものに出会った記録が残っている。ただ、それは多くはなかったようだ。

 その理由として渡辺氏は、歴史家トマス・C・スミスの論証を引く。江戸時代では検地によって査定された石高に対し、年貢の比率が定められていたのであるが『スミスによれば一般に検地は一七〇〇年以来ほとんど行われず、「それゆえ一九世紀の中ごろには、年貢は一〇〇年から一五〇年前の査定を基礎としていた」。』 

 この査定を妨げたものは、「反抗への恐怖」である。江戸時代においては、「農民の反乱」はそのまま、「藩のお取り潰し」に直結しかねない大事であった。そのため、みだりに収奪を強化することができなかったのである。

 『そのように査定石高が固定していたのに、農業生産性は絶えず向上し、作物の収量も増加した。スミスの持つ資料によれば、それは五十年間に一一ニパーセントの高さに及んでいる。』

 しかも、『商工業の急速な成長によって、農業労働力は村内のあるいは都市の他の雇用に吸収された』ため、農業人口が増え続けることもなかった。そのため、「徳川時代の大多数の農家にとっては、農業はひきあうものであったように思われる」。


 「衣食足りて礼節を知る」というのは論語の有名な一節であるが、この小さな島国においては、礼儀はその潤滑材として深く根付き、機能していた。


「日本には、礼節によって生活を楽しいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。」

「日本人は、英国人がともすれば想像するような未開の野蛮人であるどころか、外国人に対してだけでなく自分たちおたがいに対して、これほど行儀作法が洗練されている国民は世界のどこにもない」


 であれば、その国民は礼儀作法にがんじがらめに縛られ、息苦しく堅苦しい日々を送っていたかというと、これが正反対で、彼らは実に、途方もなく陽気な人々なのだった。


「この民族は、笑い上戸で心の底まで陽気である」

「日本人ほど愉快になり易い人種は殆どあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように、笑い始めたとなると、理由もなく笑い続けるのである」

「私はこれらの優しい人々を見れば見る程、大きくなり過ぎた、気のいい、親切な、よく笑う子供たちのことを思い出す。ある点で日本人は、あたかもわが国の子供が子供じみているように、子どもらしい」


 いや、「子供じみた」ではない。文字通り「大きな子供」こそが日本人だったのだ。


『羽根をついて顔に墨を塗り合っている日本の大人たちは、まことに愛すべきものに映った。「そこには、ただ喜びと陽気があるばかり。笑いはいつも人を魅惑するが、こんな場合の日本人の笑いは、ほかのどこで聞かれる笑い声よりも、いいものだ。彼らは非常に情愛深く親切な性質で、そういった善良な人達は、自分ら同様、他人が遊びを楽しむのを見ても嬉しがる。」』


 当時の日本のおもちゃのレベルは、驚嘆すべきものだったそうだ。それは『知恵や創意工夫、美的感覚、知識を費や』されたもので「どれもこれも、大人でさえ何時間も楽しむことができる」ほどの逸品だった。

 なんでそんなに高レベルだったかというと答えは簡単で。


 親 も 一 緒 に な っ て 遊 ぶ か ら 。


 つか、爺ちゃんまで一緒に親子三代で遊んでたらしい。さすがだな、日本!! 今、大きなお友達がフィギュアやらで遊んでるのは当然やったんや! そんで子供を「これでもか!」ってくらいに溺愛しまくってたらしい。「日本の子供は泣かない」というのが外国人達の間の定説であったとか。なぜなら、誰も怒らないから。しかし、大人と混じって生活をする中で、彼らはきちんと礼儀を覚え、逆に『世界中で、両親を敬愛し老年者を尊敬すること、日本の子供に如くものはない』とまで言わしめた。

 礼儀に着いては社会にまんべんなく行き渡り、たとえば街中で大声を出して罵り合うのは非常に見苦しいことで、江戸の華として知られる喧嘩にしても、『暴力は二の次で、何よりもまず啖呵の華麗さと切れ味が競われた』のだという。モースによれば「馬鹿と畜生ということばが、日本人が相手に浴びせかける侮辱の極限」だったそうだ。悪口のボキャブラリーの少なさまでも、お子様並みかよ。

 とりわけ愉快なのが隅田川の人足、船頭、別当たちの喧嘩だろう。彼らはたいそう柄が悪く、喧嘩や勢力争いが絶えなかったらしいのだが、その解決法が振るっている。なんと


 橋 の 上 の 綱 引 き 。


 なのだ!!!!


「この競技の見所は一番仕舞にある。いつでも負けた方が、引きずられたり、転がされたり、たがいに折り重なるようになって雪崩れ込んでくるからである。さらに一段と面白いのは、綱が突然切れて、双方とも一人残らず物凄い悲鳴をあげ、同時に地面に叩きつけられる時である。この耳を聾さんばかりの騒音に続いて、形容できないほどの喧々とした叫び声や、名状しがたい混乱や、目まぐるしい右往左往が始まる。人々は起き上がり、伸びをし、身体をゆさぶり、気違いのように爆笑する。そして仕舞には、相手方を橋の上まで迎えに行き、三々五々連れだって付近の茶屋に入って行き、そこで酒盛りを始め、痛飲して仲直りをするのである。そこへ行司、岡引き、女、通行人、それに両方の河岸の住民も参加して、お祭騒ぎは町内の門が閉ざされる時刻まで続けられる」


 な に こ れ 参 加 し た い 。


 まあ、これも全てが全てそうではなく、酔っぱらいが刀を振り回して死人がでたり、外国人に対して石を投げたりする例もあったという。ただ、それは非常な例外で、罵声を浴びせた時も、おもしろがって囃したてている、というのが正直なところで、それが証拠に当時の日本を旅した外国人が危害を加えられたり、それどころか盗難にあったということすら稀であった。

 そんな朴訥とした国を旅した異邦人たちが残した書物は教えてくれる。


 自然にあふれた街に住んで。

 気の向くままに働いて。

 そのくせ細工物にはやたらと凝って。

 やる気になったら夢中になって。

 お風呂に入って。

 日が暮れたらご飯を食べて。

 子どもと一緒におもちゃで遊んで。

 自分も子どものように、しょーもないことで笑いころげて。


 そんなおとぎの国めいた世界が、かつてこの国にあったことを。そこに暮らした人たちがいたことを。

 しかし、その光景は明治の近代化の流れの中で消え去っていった。それを惜しんで、チェンバレンはその著書であり、日本に関する小百科事典でもある『日本事物誌』を『古き日本の「いわば墓碑銘たらんとするもの」』と呼んだ。

 けれど、今それを振り返って、我々は知ることができる。「かつてあったもの」が、意外にまだ「ここ」にあることを。子どもの顔にふと、祖父や祖母の面影を見るように、遺伝のように、変わらず伝わり続けているものが、たくさんあることを。

 最後になるが、そのうちの一つとして、日本を訪れた者たちが賞賛してやまなかったという、ある美徳がまだ、備わっていることを願いたい。

 それは、フランス海軍の一員として一八六六年(慶応二年)から翌年にかけて滞日したデンマーク人エドゥアルド・スエンソンが、横浜大火に遭遇したときのことを書き残した一文に象徴される。


「日本人はいつに変らぬ陽気さと暢気さを保っていた。不幸に襲われたことをいつまでも嘆いて無駄にしたりしなかった。持ち物すべてを失ったにもかかわらずである。

 …… 日 本 人 の 性 格 中 、 異 彩 を 放 つ の が 、 不 幸 や 廃 墟 を 前 に し て 発 揮 さ れ る 勇 気 と 沈 着 で あ る 。 」


 僕らはきっとその面影を見るだろう。今回も。そして、これからも。

『逝きし世の面影』紹介。(前編)

 落ちたわー。昔と比べて体力落ちたわー。

 物理的な体力だけじゃなくて、読書とかにかける体力もね。長くて堅い本を読みつづけるのがしんどくなってきた。

 毎月10冊程度は本を買っているのですが、楽に読める雑誌やマンガを先に読んで、ついつい研究書やハードカバーなどといった重い本は、あとに回してしまう。しみじみ思うが、雑誌というのはよくできたメディアだね。一つ一つの記事が短いから、ちょっとした時間でも読むことができるし、開くだけでいいから、準備もいらない。様々な記事が載っているから飽きることもないし、自分の好きなタイミングで止めることも出来る。読み返すことも、保存しておくのも大した労力は要らない。唯一の欠点は、検索性だけか。「日記に書きたいんだけど、あの記事どこに載ってたっけ?」ってこと、よくあるんだよなあ。

 そうやって、雑誌読む傍ら、ちまちまと読み進めていた本に『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、渡辺京二著)という一冊がございます。これは幕末~明治の開国前後に日本を訪れた外国人たちが、日本について書き残した文章から、当時の日本の実像を浮かび上がらせた名著である。


 これがねー。めちゃ面白いんですわ! もう、固定概念覆されまくり!


 ここに描かれている日本で、今と違い、また我々が思い浮かべるものとも違うものといえば、まずは風景だろうか。

 幕末の江戸が、世界でも有数の人口を抱えた大都市であったことは、よく知られている。大都市ということで、時代劇に出てくるように、武家屋敷や長屋が密集して造られ、板塀が張り巡らされた都市のイメージがあるが、実際にはそんな風景はごく一部、中心街の表通りくらいのものだったらしい。

 それ以外はどうだったかというと、「緑に満ち溢れた巨大な村」のような風景だったのだそうだ。渡辺氏は当時の外国人の言葉を借りて、その佇まいを「田園に浸透されている都市」と表現し、幾冊かの旅行記から、次のような文章を引いて説明してくれている。

「寺院の多くは丘の上にあり、常緑の樹々に覆われ、広い墓地に取り囲まれている。また大名の所有地も壮大な公園・庭園施設をもっている。そこで至る所、緑の樹々と水の流れと、実に多種多様な建築物が見られる」

「数多くの公園や庭園がこの江戸を埋めつくしているので、遠くからみると、無限に広がる一つの公園の感を与える」

「われわれが通り抜けたのは見事な公園だったのか、それとも日本の首府の周辺地域は、どこに行ってもここと同じように美しいのだろうか」
「なんと変化に富み、豊かな植物群であろう!」
「眼前に突然、魂に焼きついて一生消えずに残るにちがいない景観が広がった」
「見たまえ、これが江戸だ」

 しかし、その風景はけして「文明の様子を失わなかった」。

『「住宅に面した部分の庭園では、樹木も潅木も自然の形をしていない。」。扇や帆かけ舟やついたての形をした植物が生えている。美しい砂利道に盆栽や花鉢が置かれ、金魚の池や人工の曲りくねった小川には苔むした石が突き出し、庭の隅には社が建っている。つまり「ここでは、自然はサロンのように着飾られ髪結われている」。そしてそういう庭園は「あらゆる不自然さにも関わらず、流行に合わせて飾りたてた可愛らしい貴婦人のように美しく快い。』


 その風景を作り上げた人間もまた、違う。旅人は語る。


「なぜ主人があんなに醜く、召使いはこれほど美しいのか」


 渡辺氏によれば、『上層と下層で、日本人にはいちじるしい肉体上の相違があることは多くの観察者が気づくところだった』のだという。我々は今、支配階級である武士は鍛錬によって隆々たる身体を有し、一方で町民・農民たちは穏やかで細い身体を持っていたようなイメージがあるが


「下層階級は概して強壮で、腕や足や胸部がよく発達している。上流階級はしばしば病弱である」


と語られているように、幕末に置いては、これはもう真逆だったようだ。特に肉体労働者のたくましい身体は賞賛の的であったようで、


「黄金時代のギリシャ彫刻を理解しようとするなら、夏に日本を旅行する必要がある」


と言う者すらいた。ただし「足が短いのが欠点」だそうだが。ほっとけ。

 同じく、女性についても、同じような評価がある。曰く


「この国ではひとりとして格好いい男を見かけない。ところが女のほうはまるで反対だから驚いてしまう」


――と。

 「日本の女は厳密な意味で美しいのではなく、感じがいいのだ」と言うものや、「日本女性を装飾品だと思っている」と言うもの、「日本の女は、とかく人形みたいで真面目に相手するまでもありません」と言ってドイツに帰り「本物の家族」を持とうとした者などもいたが、往々にして、日本女性の魅力は、男女を問わず、訪れた異邦人たちの心をつかんだという。

 また、この女性たち、特に農民や職人の細君が家庭において「夫と労働を共にするだけでなく、その相談相手にもなる。主婦が一家の財布を預かり、実際に支配をすることが多い」という権威と権力を有していたことも、旅人たちがつとに指摘しているところだという。

 この魅力的な女性たちが、街角であらわな姿を見せるのも、当時と今の大きな違いであろう。

 当時の日本を訪れた外国人たちを一様に驚かせたのは、日本人の裸体に対する羞恥の欠如だったという。江戸期の日本において、公衆浴場が混浴であったことはよく知られているが、それどころか、街角で普通に、女性が素っ裸で行水をしている姿が頻繁に見られた。

 ホジソンという英国領事が横浜に赴任すべく江戸を訪れた時など、こんな事件が起きたという。

「男女の入浴者が入り乱れて、二十軒ばかりの公衆の小屋から、われわれが通りすぎるのを見物するために飛び出してきた。皆が何一つ隠さず、われわれの最初の両親(アダムとイブ)が放逐される前の、生まれたままの姿であった。こんなに度肝を抜かれたことはなかった。……男女の入浴者が全員、裸であるのに平気で、意識も顧慮もせず、新奇な光景をゆっくりみて、好奇心を満足させようとした」

 こういった光景を「暗愚と退廃」として唾棄したものもいたが、多くはやがて、その振る舞いが天真爛漫さより生まれたものであることに気づき、淫らなのは自分たちの方であったと恥じいることになる。そして、自分たちが目にしているのは「楽園の無邪気さ」であり、「堕落以前のイヴ」なのだと悟るに至るのである。

 こういった「身体に対する羞恥心の欠如」は、同時に「性」に対するおおらかさと一体でもあった。当時の日本には「性」は穢れでも隠すべきものでもなく、むしろ称揚すべき存在だった。それは各地で男根・女陰の形をした石や木が崇拝されていた、などといった古俗だけではなく、生活に深く溶け込んだ存在だった。


「絵画、彫刻で示されるわいせつな品物が、玩具としてどこの店にも堂々とかざられている。これらの品物を父は娘に、母は息子に、そして兄は妹に買ってゆく。十歳の子どもでもすでに、ヨーロッパでは老貴婦人がほとんど知らないような性愛のすべての秘密となじみになっている」

『本屋でよく見かける三文小説の挿絵には「品位というものにまったく無頓着」なものがあり、しかもそういう絵本を子どもが手にしていた。子供らは「それが何の絵であるか熟知しているらしかった」』

「あらゆる年齢の女たちが淫らな絵を見て大いに楽しんでいる」


 ことほど左様に性に対して開放的なお国柄であったので、遊女についても偏見はない。それは職業の一つとしてみなされており、貧しさから売られた子どもでも、25歳になって年季が開けると「尊敬すべき婦人としてもとの社会に復帰」し、「恵まれた結婚をすることも珍しくない」。

 そして奉公中も


「両親は遊女屋に自分の子を訪問し、逆に娘たちは外出日に両親のいる住居に行くのを最上の楽しみにしている。娘が病気にかかると、母親はすぐに看護に来て彼女を慰める」。

 こういった社会であるので、処女崇拝なんて概念は一般的ではなかったし、離婚もなんの不名誉にもならなかった。


 意外、といえば仕事に関する価値観の相違もそうだろうか。当時の労働者達は、働きたい時に働き、休みたい時に休んだ。社会には悠長さがみなぎっていた。


「日本人は交渉が始まろうというのに、いつまでも座り込んで、喫煙したり、あたりを眺めたり、あたかも気晴らしにでも出かけているつもりらしい。そしてこういう場合なのに、お茶を飲んだり菓子を食べるといった暢気さである」

「商取引きの場合でさえ、ヨーロッパ商人の最大の当惑は、時間通りに契約を実行させるのが難しいことであった。いや、不可能だったといったほうがよいかも知れない」

「日本人の働き手、すなわち野良仕事をする人や都会の労働者は一般に聡明であり、器用であり、性質が優しく、また陽気でさえあり、多くの文明国での同じ境遇にある大部分の人より確かにつきあいよい。彼は勤勉というより活動的であり、精力的というより我慢強い。日常の糧を得るのに直接必要な仕事をあまり文句も言わずに果たしている。しかし彼の努力はそこで止まる。……必要なものはもつが、余計なものを得ようとは思わない。大きい利益のために疲れ果てるまで苦労しようとしないし、一つの仕事を早く終えて、もう一つの仕事にとりかかろうとも決してしない。一人の労働者に何かの仕事を命じて見給え。彼は必要以上の時間を要求するだろう。注文を取り消すと言って脅して見給え。彼は自分が受けてよいと思う以上の疲労に身をさらすよりも、その仕事を放棄するだろう。どこかの仕事場に入って見給え。ひとはタバコをふかし、笑い、しゃべっている。(中略)仕事を休むために常に口実が用意されている。暑さ、寒さ、雨、それから特に祭りである」


 『いわゆる発展途上国の近代化の困難について嘆く、今日の先進国テクノクラートの言い分にそっくりだ』と、渡辺氏はユーモアを交えて語る。

 だが、そんな中にも、やはり国民性とも言うべき、変わらぬものを見出すことができる。


(続く)